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文元社は、人文科学書を中心とした出版活動を行っています。また、デジタルデータ活用のため (株)インタープレイとの協働をすすめています。

株式会社 文元社

東日本大地震に際して、亡くなられました方々のご冥福をお祈り申し上げますとともに、被害を受けられました皆様には、謹んでお見舞い申し上げます。一日も早く平常の生活に戻れますようお祈り申し上げます。
オンデマンド出版は、予め在庫を持つ必要がないうえ、いつ注文があっても、1冊から対応できる 、デジタル技術を活用した、画期的なものです。
この仕組みと技術は、ダウンサイジングという時代動向ともあいまって、いま注目を浴びているのです。
絶版を惜しむ声が多く寄せられた現代教養文庫の名著・名作をオンデマンドならではの装いでお届けいたします。
受注生産ですので、ご注文からお届けまで2週間ほど掛かります。

旧社会思想社の刊行物を含め、オンデマンドで復刊希望図書がありましたら 文元社までご要望をお寄せ下さい。ご希望多数の書籍から復刊して行く予定です。

お知らせ話題の本

『日本のわらべうた 歳事・季節歌編』 尾原昭夫 編著
日本のわらべうた 歳事・季節歌編  わらべうたや民謡の採集・研究をライフワークとする著者の労作「室内遊戯歌編」「戸外遊戯歌編」の改訂新版化にあわせて、書き下ろし「歳事・季節歌編」を加えた類書のないシリーズ。
 歌詞・地域ごとのバリエーション、遊びなどの解説に加えて、楽譜は実際に旋律の再現に活用できるように工夫された大判で、本編では430余の楽譜が収録されている。構成は、春・夏・秋・冬・正月の伝承、気候、動植物をめぐる遊びうたが歳時記風に編集されて いる。
 なお著者は久留島武彦文化賞(76)、毎日出版文化特別賞(93)、田村虎蔵特別賞(鳥取県、94)を受賞している。

菊版並製 二段組336頁 本体価格4300円
ISBN9784-86145-401-1 2009年4月発行

発行:(株)文元社 発売元: (株)紀伊國屋書店
『日本のわらべうた 戸外遊戯歌編』 尾原昭夫 編著
『日本のわらべうた 戸外遊戯歌編』カバー
 鬼遊びうた・子もらい遊びうた・輪遊びうた・列遊びうた・くぐり遊びうた・押し合い遊びうた・馬乗り遊びうた・片足とびうた・なわとびうた・ゴムとびうた・ぶらんこ遊びうた・風船つきうた・竹馬遊びうた・電車遊びうたなど類型別に構成。収録楽譜230余。

菊版並製 二段組308頁 本体価格4300円
ISBN9784-86145-402-8 2009年11月発行

発行:(株)文元社 発売元: (株)紀伊國屋書店
『日本のわらべうた 室内遊戯歌編』 尾原昭夫 編著
『日本のわらべうた 室内遊戯歌編』カバー
 遊ばせうた・顔遊びうた・手遊びうた・おはじきうた・竹がえしうた・あやとりうた・手合わせうた・絵かきうた・いしなごうた・お手玉うた・手まりうた(近世・近代)・手まりうた(現代)で構成。収録楽譜300。三巻に共通して地域ごとのバリエーションなどの関連項目は多彩で、類歌などを含めると1000余の歌詞が収録され、〝わらべうた〟の千変万化の妙、民俗文化としての〝言葉〟の豊かさがあわせ鑑賞できる。

菊版並製 二段組340頁 本体価格4300円
ISBN9784-86145-403-5 2009年12月発行

発行:(株)文元社 発売元: (株)紀伊國屋書店

話題topics

・神楽坂上だより(4号)

 津波で流されたとみられる福島の小型漁船が太平洋の真ん中のミッドウェー洋上で発見された、と伝えられています。距離にしておよそ3100キロ。これはもうタイムスリップの距離です。
 未曾有の経験から半年を経て、福島県議会は原発を抱える全国の県議会で初めて、全原発廃炉を求める請願を賛成多数で採択して、政治とは合意の形成をはげまし支えていくという、デモクラシー本来のあり方を示してくれたように思えます。

 「学んだことの唯一の証(あかし)は変わることである」(『教えることと学ぶこと』国土社)とは、東北にゆかりの深い哲学者・教育学者、故林竹二先生の言でした。また先生は、教育とは「行為〈プラクテシス〉」でなくてはならないとして、郷土の思想家、新井奥邃や、田中正造の研究・発掘につとめ、敗戦直後には、復員軍人、軍学徒だった若者の復学支援や救済につとめ、晩年の十余年間には小、中、高の各校をめぐり、三百回を越える〝授業〟実践を試みられています(日向康『林竹二 天の仕事』講談社、のち教養文庫)。
 そう言えば、原子力や巨大技術に過剰にたよる現代社会に警鐘を鳴らし続けた、故高木仁三郎さんもやはり、「変わる、変える」ということにこだわられた方でした(例えば、「科学は変わる」)。

 ところでここにタイムスリップではなく、現実を写した美しい探訪記が残されています。日本が〝明治〟という膨張期を驀進し始めようとする直前の、1878(明治11)年5月から書きはじめられた〝東北〟のスケッチです。
 「米沢平野は、南に繁栄する米沢の町があり、北には湯治客の多い温泉場の赤湯があり、まったくエデンの園である。『鋤で耕したというより鉛筆で描いたように』美しい。米、綿、とうもろこし、煙草、麻、藍、大豆、茄子、くるみ、水瓜、きゅうり、柿、杏、ざくろを豊富に栽培している。実り豊かに微笑する大地であり、アジアのアルカデヤ(桃源郷)である。自力で栄えるこの豊沃な大地は、すべて、それを耕作している人々の所有するところのものである。彼らは、葡萄、いちじく、ざくろの木の下に住み、圧迫のない自由な暮らしをしている。これは圧政に苦しむアジアでは珍しい現象である……」(イザベラ・バード『日本奥地紀行』高梨健吉訳/平凡社/218頁)

 もちろん漁船の運命と同時に、日本の〝近代化〟の航跡をたどりなおしてみるのも、〝変わる〟ためのレッスンの一つのように思います。

2011年11月8日

・神楽坂上だより(3号)

 残暑お見舞い申し上げます。

 8月25日、明石書店よりできたてのW.J.ゴフマン著『新装版 人間と放射線』が届きました。その添え書きには「このような時代になってしまったことが本当に残念でなりませんが、二度とこのようなことが起きないようにすることはできるはずだと思います。本書(の新装版出版)がその一助になればと願うばかりです」(ご担当の大野祐子氏)とありました。

 本書の初版は1991年2月、旧社会思想社より翻訳出版されました。ちょうどこの頃からチェルノブイリ原発事故による、特に子どもたちの間での放射線の被害が深刻化し、ゴフマン博士のこの本への問い合わせがしばしば寄せられていました。
 本書は人間の健康と放射線際の影響、なかでも低線量での影響、若年層での影響についての研究では〝バイブル〟と称されるほど世界的に定評のある本です。

 しかしゴフマン博士は、本書「著者紹介」に詳しいように、もともと、「マンハッタン計画」に参加、放射線の人体への影響調査に従事、核兵器開発のために設立されたローレンス・リバモア研究所の生物医学部門でアメリカ原子力委員会からスタッフと資金の提供を受け、ガンと染色体損傷の病理学的研究、放射線影響の疫学的調査をまかされます。しかし博士は、1969年頃から、放射線はこれまで考えられていたよりも危険なものであることを確信、警告するようになります。
 ゴフマン博士のすごいところは、これに対するさまざまな妨害、圧力に屈せず科学者としての責任、医師としての良心から、以後、原子力の危険性訴えるための市民運動を本格的に開始したことです。一方でゴフマン博士は、専門の心臓病の研究でも業績を残し、2007年、サンフランシスコの自宅で死去しています。行年88歳でした。

 原子力の現代史とでも言えるようなゴフマン博士の足跡をふり返ってみますと、訳者代表の今中哲二氏が「復刊にあたって」で記されている「『人間と放射線』が再刊されるという『好事』のきっかけが、福島第1原発事故という『大惨事』であることに訳者のひとりとして複雑な思いを禁じ得ないが、この本が『放射能汚染と向きあう』ための智恵を私たちに提供してくれるものと確信している」という数行には、万感の思いが込められていると拝察します。

 新装版として復刊したいという朗報に、友人を介して接したのがこの6月半ばのことでした。700頁を越える大部なものにもかかわらず、このような短時日のうちにすべてをととのえ、求めやすい定価付けで見事に仕上げてくださった明石書店のスタッフの方々並びに関係者の皆様に、この場をおかりして感謝いたします。

2011年9月1日

・神楽坂上だより(2号)

 作家・中山幹氏の本に『最後の戦中派』(05/4文元社)というエッセイ集があります。そのなかで氏はこの本のタイトルの由来を以下のように述べています。

 「私は大正十五年の一月に生れた。この生年月は、奇妙な意味がある。大正の最後の年であるが、この年の三月までに生れた早生まれの者は、小学一年生の読み方の読本は、ハナ、ハト、マメ、マスで始まっていた。この読本を使った(私は)最後の児童である。その年の四月以降、遅生まれの児童の読本は、新しくなって、サイタ、サイタ、サクラガサイタ、で始まっている。そこに、断絶というべきものがある。さらに、敗戦の年の四月末に私は現役の召集を受け、陸軍二等兵となった。……ここでもラストを努めたのだ」

 氏は「断絶というべきもの」と書かれていますが、この通称ハナハト読本とサクラ読本との間には実に大きな懸隔が存在したのでした。前者は大正デモクラシーの風をはらんで編集・製作、使用されたもので、後者はその影響の一部が児童文芸読本風として引き継がれているものの、一方で、「ススメ ススメ ヘイタイススメ」と軍国調が顕れ、皇民化に拍車をかける役割を併せ持ったのでした。
 同氏の自伝的大著『われらが日々』(文元社)は、この大正デモクラシーを内面化して生きようとした若者の挫折と苦闘の姿を描いた労作です。
 そしてこのサクラ読本には、中山幹氏にとって「奇妙な意味」で暗合するところがもうひとつありました。それは、中山氏の別の本『ひと世の眺め』(92/6)に収められている「『稲むらの火』をめぐって」のエピソードです。
 ご承知のように『稲むらの火』は東日本大震災の際に津波のことで話題となった、ラフカディオ・ハーンの原作(原題は「生神様」)です。

 中山青年は旧制福岡高校に進学しますが、二年のとき退学を余儀なくされます。軍国主義的国民総動員体制が頂点に達していた時代のことですから、教育課程の正科に組み込まれていた軍事「教練」と、鼻息の荒かった軍人教官を忌避批判し続ければ、青年の居場所は奪われます。そうした経緯ののち、昭和二十年五月に徴兵されるまでの間中山青年は京都、宇治の槇島村国民学校の助教の(代用教員と呼ばれた)職につきますが、ある時、地域の若い教員を対象とする授業の見学、研究会が行われることになり、新米の中山青年が教壇に立つことになりました。
 その時に選んだ作品が『稲村の火』という二千字足らずの作品だったのです。「簡潔で緊張に満ちたなかなかの名文」だったと彼は評しています。
 ところが、後刻開かれた研究会での講評では四面楚歌、さんざんでした。そんなことがあって、四十年ほど経って再会した槇島小学校の同僚の女性教師から、
「ええ授業やったんで、わたし、よう覚えてるんよ、先生」という驚くべき証言を聞かされます。

 中山氏は、安政南海地震で津波に襲われた和歌山県広村の庄屋の五兵衛(史実では醤油製造業の地元の篤志家・濱口梧陵)が取り入れたばかりの稲むらに火をかけ村民に津波の来襲を知らせたという古くからの言伝えをもとに、ハーンが「生神様」という約七千五百字の作品にまとめ、これを中井常蔵という小学校の教員が文部省の募集に応じて圧縮したものであることなどを調べ、覚えていてくれたお礼として彼女に調査結果を報らせます。「『稲村の火』をめぐって」はそんな経緯をまとめた作品だったのです。
 その末尾で「できれば私も広村を訪れてみたい」と記していますが、中山氏は平成二十二年一月十五日に急逝されていますからこの願いは絶たれてしまったわけですが、『稲むらの火』が小学五年生後期用の教材としてサクラ読本に掲載されたものであったこと(府川源一郎「『稲むらの火』の文化史」)をお報せしていれば、中山氏の半生と暗合するところまで話が及んでいたかも知れない、と残念でなりません。

2011年8月8日

・神楽坂上だより(1号)

 神楽坂通りの毘沙門天を左に見て左折し坂を登ると、かつての牛込氏の居城跡に光照寺があります。その境内の紫陽花がもう満開です。
ドイツのメルケル政権は原発の是非をめぐって議論重ね、脱原発政策を決めたことはご承知の通りです。それを伝えた神戸新聞の社説は「政治姿勢にあやかりたい」とリードを付して、次のように書いています。
(2011/6/1)
「……風力などへの転換には巨額の投資が必要とされ、財政支援や電気料金への上乗せなどといった議論はこれからだ。
 脱原発へ舵を切ったドイツの苦難はこれから始まると言っていい。ただ、そうであっても地震や津波に無縁のドイツが原発事故を深刻に受け止め、退路を断って脱原発へ踏み出した意味は大きい。
 国の進むべき方向として間違いないという信念と決断。政治に求められるのはそれだ。対する日本はどうか。政府のエネルギー政策は定まらず、事故収束の見込みが立たない中で、政争に明け暮れている。彼我の違いにため息が出る」と。

一方、福島県の佐藤雄平知事は27日の県議会で「原子力に依存しない社会を目指すべきである」と述べ、県の復興ビジョンに明記するという。これは、原発立地県としては初めての「脱原発」姿勢の表明です。
ただそれを伝える記事が「社会面」のベタ記事という扱いはないのではないかと、その報道姿勢が気がかりです。
とはいえ作家・村上春樹氏のカタルーニヤ国際賞の受賞スピーチ、城南信金の新宣言等々、〝転機〟のときを告げるメッセージとして元気の素となります。
ドイツといえば忘れられないのは、ヴァイツゼッカー大統領の、ドイツ降伏40年に当たっての演説(「荒れ野の40年」)の格調の高さでした。

2011年7月2日

・神楽坂上だより(ゼロ号)

 「その時(1923年9月1日11時58分)のさまがはっきりと私の眼の前に浮んで来た。  私達は中庭に面した八畳の一室で、昼飯をすまして――少なくとも私と私の長男と次男とだけはすまして、何か頻りに話をしていた。(中略)そこにゴオという音が南の方から響いて来たのである。
 と、いつも地震などそんなにこわがらない長男が、ぐらぐらと来ると同時に、『オッ! 地震』と叫んで、立ち上がるより早く、一目散に戸外に飛び出した。弟も妹も母親もすぐそれにつづいた。私は少時(しばらく)じっとして様子を見ていたが、いつもと違って、非常に大きいらしいのに、慌てて皆のあとを追って飛び出して行った。
 それは何とも言われない光景であった。あたりはしんとした。世界の終りでもなければ容易に見られまいと思われるような寂寞(せきばく)が、沈黙が一時あたりを領した。誰も何も言うものはなかった。声を出すものもなかった。唯、内から人の遁(に)げ出す気勢(けはい)ばかりがあたりに満ちた」
 これは、田山花袋が 『東京震災記』に記した被災直後の情景ですが、誰もが、時が止まったような一瞬を感じたようです。
 同書の解説で小林一郎氏は、「そして、(罹災の実情をつぶさに観察し描写した)花袋は、『廃墟』の中から『新しい芽』が萌え出る、つまり『再生』という考えを打ち出すのであり、『自然』の本質、在り方を厳粛に受けとめるべき」ことを強調して、破壊するのも再生するのもまたこの自然の力をどう受けとめるかにかかっていると見ているのではないか、と読み解かれています。

 弊社では、この大きな転換期において、引き続き本書のように残すべき本の継承に努めて、この「再生」への道に取り組んでまいります。
なお、教養ワイドコレクションの第二期を準備中ですので、ご期待ください。

2011年4月25日

新着情報news

2011年11月8日
神楽坂上だより(4号)」をアップしました。
2011年9月1日
神楽坂上だより(3号)」をアップしました。
2011年8月28日
コラム「二つの農民戦争をめぐって」をアップしました。
2011年8月8日
神楽坂上だより(2号)」をアップしました。
2011年7月2日
神楽坂上だより(1号)」をアップしました。
2011年6月24日
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2011年4月25日
神楽坂上だより(ゼロ号)」をアップしました。
2011年4月15日
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