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◆神楽坂上だより

神楽坂上だより(2号)

 作家・中山幹氏の本に『最後の戦中派』(05/4文元社)というエッセイ集があります。そのなかで氏はこの本のタイトルの由来を以下のように述べています。

 「私は大正十五年の一月に生れた。この生年月は、奇妙な意味がある。大正の最後の年であるが、この年の三月までに生れた早生まれの者は、小学一年生の読み方の読本は、ハナ、ハト、マメ、マスで始まっていた。この読本を使った(私は)最後の児童である。その年の四月以降、遅生まれの児童の読本は、新しくなって、サイタ、サイタ、サクラガサイタ、で始まっている。そこに、断絶というべきものがある。さらに、敗戦の年の四月末に私は現役の召集を受け、陸軍二等兵となった。……ここでもラストを努めたのだ」

 氏は「断絶というべきもの」と書かれていますが、この通称ハナハト読本とサクラ読本との間には実に大きな懸隔が存在したのでした。前者は大正デモクラシーの風をはらんで編集・製作、使用されたもので、後者はその影響の一部が児童文芸読本風として引き継がれているものの、一方で、「ススメ ススメ ヘイタイススメ」と軍国調が顕れ、皇民化に拍車をかける役割を併せ持ったのでした。
 同氏の自伝的大著『われらが日々』(文元社)は、この大正デモクラシーを内面化して生きようとした若者の挫折と苦闘の姿を描いた労作です。
 そしてこのサクラ読本には、中山幹氏にとって「奇妙な意味」で暗合するところがもうひとつありました。それは、中山氏の別の本『ひと世の眺め』(92/6)に収められている「『稲むらの火』をめぐって」のエピソードです。
 ご承知のように『稲むらの火』は東日本大震災の際に津波のことで話題となった、ラフカディオ・ハーンの原作(原題は「生神様」)です。

 中山青年は旧制福岡高校に進学しますが、二年のとき退学を余儀なくされます。軍国主義的国民総動員体制が頂点に達していた時代のことですから、教育課程の正科に組み込まれていた軍事「教練」と、鼻息の荒かった軍人教官を忌避批判し続ければ、青年の居場所は奪われます。そうした経緯ののち、昭和二十年五月に徴兵されるまでの間中山青年は京都、宇治の槇島村国民学校の助教の(代用教員と呼ばれた)職につきますが、ある時、地域の若い教員を対象とする授業の見学、研究会が行われることになり、新米の中山青年が教壇に立つことになりました。
 その時に選んだ作品が『稲村の火』という二千字足らずの作品だったのです。「簡潔で緊張に満ちたなかなかの名文」だったと彼は評しています。
 ところが、後刻開かれた研究会での講評では四面楚歌、さんざんでした。そんなことがあって、四十年ほど経って再会した槇島小学校の同僚の女性教師から、
「ええ授業やったんで、わたし、よう覚えてるんよ、先生」という驚くべき証言を聞かされます。

 中山氏は、安政南海地震で津波に襲われた和歌山県広村の庄屋の五兵衛(史実では醤油製造業の地元の篤志家・濱口梧陵)が取り入れたばかりの稲むらに火をかけ村民に津波の来襲を知らせたという古くからの言伝えをもとに、ハーンが「生神様」という約七千五百字の作品にまとめ、これを中井常蔵という小学校の教員が文部省の募集に応じて圧縮したものであることなどを調べ、覚えていてくれたお礼として彼女に調査結果を報らせます。「『稲村の火』をめぐって」はそんな経緯をまとめた作品だったのです。
 その末尾で「できれば私も広村を訪れてみたい」と記していますが、中山氏は平成二十二年一月十五日に急逝されていますからこの願いは絶たれてしまったわけですが、『稲むらの火』が小学五年生後期用の教材としてサクラ読本に掲載されたものであったこと(府川源一郎「『稲むらの火』の文化史」)をお報せしていれば、中山氏の半生と暗合するところまで話が及んでいたかも知れない、と残念でなりません。

2011年8月8日

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