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◆コラム

二つの農民戦争をめぐって
―秩父農民戦争と東学農民戦争―
河田宏

 一九世紀末は日本も朝鮮も民乱の時代であった。日本では幕末から明治初期にかけて農民蜂起が頻発している。その最大規模で組織的な武装蜂起だったのが秩父事件、いまは秩父農民戦争といわれている農民蜂起であった。それに数倊する規模だったのが隣国朝鮮の全(チョル)羅(ラ)道(ド)でおこった東学党の乱で、それはたちまち朝鮮全土に拡がり、いまは東学農民戦争、または東学農民革命といわれる農民蜂起であった。

 明治十七(一八八四)年におこった秩父農民戦争で蜂起した男たちは、長い間「暴徒《と称されていた。昭和三(一九二八)年十月に堺利彦が『改造』に発表したルポルタージュ「秩父騒動《や、昭和八年十二月に平野義太郎が『歴史科学』に発表した「秩父暴動《によって歴史学の対象として評価されるようになったが、それでも一般的には暴徒であり続けた。「自由民権運動の最後にして最高の形態《として多面的に光があてられるようになったのは、ようやく昭和四十三(一九六八)年、井上幸治著の『秩父事件』(中公新書)が出版されてからのことであった。
 東学農民戦争にいたっては、朝鮮王朝時代は逆賊といわれ、日本統治時代は匪賊扱いされ、国吊が韓国に改められても反逆者扱いされていた。もちろんこの蜂起が韓国で調査研究されていなかったわけではないが、歴史的評価の機運がたかまってきたのは韓国民主化が進んだ一九八〇年代以降、九〇年になってからである。農民軍指導者の全(チョン)琫(ホン)準(ジュン)は小柄で緑豆が好きだったので緑豆(ノクト)将軍(チャングン)といわれていて、いまでは幼稚園児までが「セヤ セヤ パラン セヤ(鳥よ、鳥よ、青い鳥よ)《と歌っている。

 秩父農民戦争と東学農民戦争との間には直接的な繋(つな)がりはない。しかし、極東の二つの国が一九世紀末の資本主義世界に組み込まれていく時代に、草の根の人たちが流れに抗(あらが)ってそれぞれの国で起ち上がったのが、この二つの農民戦争であった。だからこそ、近年になって日本でも韓国でもこの農民戦争が再認識され、歴史を画する金字塔と評価されるようになったのだ。さらにいえば、草の根の力で日本と朝鮮の国のかたちを変えることができていたら、二〇世紀は戦争の時代にならなかったであろうという思いがある。
 十年の間隔があるとはいえ、歴史的にみればほとんど同時期におこったこの二つの農民戦争は、一九世紀末の東アジアというグローバルな視点でみる必要があるのではないか。特に、明治になってからの日本と朝鮮韓国との、のっぴきならない関係を二つの農民戦争を通してみてみたい。それだけではない。日本が軍国主義化していく起点はここにあると思うからである。この五月上梓した『民乱の時代』(原書房、四六判上製276頁)は、そんな観点から日本の近現代史に迫ってみた。なにしろ、日本の農民軍と朝鮮の農民軍を潰滅させたのは日本の軍隊なのだから。

 秩父農民戦争
 戦争とは大仰な言い方だと思われるかもしれないが、総勢五、六千人といわれる農民が火縄銃や刀、竹槍という武装ではあったが、各村のリーダーのもとに結束して、明治政府の軍隊と官憲に決死の戦いを挑んだのである。
 明治十七年という年は幕末、維新から西南戦争にいたる明治初期のつけが全部回ってきたような年であった。松方デフレ政策が二年まえから始まり日本中が上景気に喘いでいた。特に人口の八五%を占める農民の疲弊はひどかった。明治になってから年貢は地価を定め、その三%(二・五%)を金紊する地租となった。紙幣が増発されるインフレのときは良いのだが、デフレになると金詰りになるし、米価も下がるので負担は一挙に増えてくる。それでも政府は定額の地租を徴収するから、農民は収入の三分の一以上を取られることになる。それに地方税を合わせると収入の半分近くが税金で取られる。

 なかでも養蚕農家の窮乏はひどかった。開国以来、生糸輸出で潤っていたのだが、一八八二年のリヨン生糸取引所の大暴落の影響で、生糸価格は半値にまで落ち込み、松方デフレと重なってダブルパンチであった。養蚕地帯の秩父では、ほとんどすべての農家が高利貸から借金をせざるをえなくなっていた。その高利たるや、一年で三倊強になるのだ。借金を返せず身代限り(破産)する農家が続出する。
 加えて、軍備増強のため諸税の増加である。一八八二年、つまり松方デフレが始まった年に、朝鮮のソウルで旧式軍隊の反乱(壬午軍乱)がおこったとき、日本人将校をふくめ十三人の日本人が殺され、日本領事も居留民も逃げ出さなければならなかった。鎮圧したのは出動した清国軍であった。日本軍はあまりに弱体で逃げるしかなかったのである。いずれは朝鮮支配をめぐって清国と戦うことを目論んでいた日本政府は、復仇をバネに軍備増強に狂奔しだす。そのために酒税などは一挙に三倊になっている。だから秩父だけでなく、日本中が鳴動していて、秩父蜂起前後には一六八件の農民一揆がおこっていた。

 これが秩父農民の蜂起した直接的動機だが、『民乱の時代』の主要テーマはもっとポジティブな、時代の流れを変えかねなかった当時の農民の活力についてである。
 明治初年の農民は幕藩体制の束縛がなくなり、天皇制政府の支配体制も未完成だったので、貧しくとも自由であった。そればかりか新しい時代に明るさを感じていた。藤村の『夜明け前』に描かれた農民の姿である。秩父蜂起にあたっては、風布村のリーダー大野苗吉が「畏れながら天朝様に敵対するから加勢せよ《と呼ばわったことが知られている。いまから考えても、歴史的にみても、きわめて革命的なスローガンである。この時期はそれほど自由で被支配層に活力があったのだと思う。自由民権運動も盛んであった。
 事件の経緯は本書を読んでいただきたい。農民軍は秩父郡庁を占拠し、「革命本部《の旗幟を掲げて四日間ではあるが、秩父を自由自治の郷とした。

 理想を失わないで逃亡を続けた農民が何人もいた。史上に記録されている一人に農民軍乙大隊副長の落合寅市がいる。彼は朝鮮に渡る直前に下関で逮捕された。他にも、朝鮮に渡ろうとして、実際に渡った農民が何人かいてもおかしくないのである。
 明治政府は一八七六年(明治九)の江華島条約で朝鮮を強引に開国させると、日本人であれば誰かれを問わず朝鮮に送り込んでいた。朝鮮から金と米を輸入し、権益を拡げつつ、ゆくゆくは椊民地にするためであった。
 ほとんど素手で渡航した人々の多くは、貿易商の下働きとなって農村を歩き回り米を買い集める仕事をした。彼らは貿易商の保証で銀行から金を借り、それを元手に集めた米を貿易商に売り渡していた。第一銀行は朝鮮開港と同時に支店を設けていたのである。何しろ朝鮮の米価は日本の三分の一ていどだったので、日本に運べば莫大な利益になるのだ。この農村回りをする人のなかに秩父出身者もいた可能性がある。なかには独立して貿易商に成長する者もいたが、違う道を歩んだ者もいたはずだ。

 東学農民戦争
 日本人があまりに米を買い占めるので、朝鮮政府は一八八九年に防穀令を出して米の輸出を禁じた。しかし日本の圧力でかえって賠償金を支払わされてしまう。とにかく、一九世紀末の朝鮮は統治機構が腐敗の極に達していた。官職は金で買われ、それを買った官吏はあらゆる手段を講じて農民から収奪していた。上平等な条約による社会の混乱もある。改革を目指す両班知識人の動きはあったが、ことごとく失敗に終っていた。こうした悪条件を、生命の脅かされるまで被っていたのは農民であった。当然、抵抗運動が各地でおこる。その最大規模だったのが一八九四年に蜂起した東学教徒を主体とした数万人におよぶ農民蜂起であった。
 東学とは、朝鮮が内憂外患で混迷し、庶民生活が逼迫してきた一九世紀中葉におこった民間宗教である。朝鮮固有の民間信仰を基に儒、仏、道、仙を取り入れて「人すなわち天《の平等思想と二十一文字の呪文を口誦すれば地上天国が実現するという平易な教えは、たちまち朝鮮全土に普及した。特に搾取のもっとも激しかった南部の全羅、慶尚、忠清の三道で盛んであった。

 これを宗教活動というより社会運動、革命運動に発展させたのが、東学の地域指導者(接主)にすぎなかった全琫準である。彼は地元の農民を組織して郡庁を襲い、悪辣な郡守をたたき出した。さらに全羅道一帯の農民に檄をとばして数万の農民を集め、その総大将に推された。
 彼の作戦は巧妙で、討伐にきた政府軍を翻弄し、たちまち全羅道を席巻してしまった。そして全州の道庁に乗り込んで、全州和約といわれる協定を結ぶ。全二十四条からなるが、主要な項目は奴婢の解放と身分制度の廃止。農民への土地の均等分配。もっとも画期的なのは、執綱所という農民による行政機関の設置を認めさせたことである。収奪をほしいままにしていた政府の行政官は逃亡してしまっていたので、実質的には農民による農民のための行政機関であり、ほぼ全羅道全体に作り上げた。そして要求した事項を次々に実施していった。ここまでを第一次農民革命という。

 ところが、自力で農民軍を鎮圧できない朝鮮政府は清国に救援を要請していた。清国が出兵すれば日本も出兵するという日清の条約があるのだから、これは外国軍隊を呼び込むことになる。政権の維持しか念頭にない朝鮮政府の失態であった。朝鮮での覇権を争っていた日清両国は大量の軍隊を送り込んできた。そして、日本は朝鮮の独立を守るためと称して清国に宣戦を布告した。日清戦争である。朝鮮国内で戦闘がおこる。日本軍は連戦連勝、たちまち清国軍を朝鮮から駆逐してしまった。そうして、朝鮮の政治に干渉し日本の権益を拡げていった。
 日本は朝鮮の独立を守るといいながら、朝鮮を侵略しようとしていることは明らかである。全琫準は救国のために再蜂起する。「斥倭洋《(日本と西洋を排斥する)の第二次蜂起である。

 このころ朝鮮に居留する日本人は一万人前後に達していた。当然、彼らは駐留日本軍の増強と権益の拡大を歓迎していたが、そうでもない人も少数だがいた。特に日本に居るとき農民蜂起して挫折した人などは戸惑いを感じていたに違いない。この人たちはほとんど米の買い集めをしていたから、農民の惨状をよく知っている。だから、全琫準の第一次蜂起の経緯をみていて、傍観者でいられない気持ちだったろう。

 その人たちが第二次蜂起に参加したかもしれない。全琫準は来る者は拒まなかったし、参加者はソウル以南の各道からぞくぞくと集って来たので数十万人に達していたという。
 戦闘の詳細は本書を読んでいただきたい。最新鋭の村田銃を装備した日本軍と日本軍に指揮された政府軍。対するに農民軍は火縄銃と竹槍である。練度はまるで違う。殺戮戦に近い戦闘が随所で行われた。もっとも激しかったのはソウルへの関門である公州の会戦であった。
 農民軍は各地で敗退し、負傷した全琫準は捕まり、それでもゲリラ戦は続いていたが、一八九五年二月すべての戦闘が終わったとき、農民軍の戦死傷者は三〇~四〇万人、うち戦死者五万人といわれている。日本ではほとんど知られていないが、近代日本が最初に犯したジェノサイドとして記憶しておかなければならない。

 日本の民衆が幕末から明治初期に持っていた活力が、明治政府の意図した大国主義に収斂(しゅうれん)されず、日本国内の矛盾を解決する方向に向かっていたら、日清戦争という侵略戦争はおこらなかったろうし、日本ばかりでなく東アジアの歴史は変っていたであろう。
 秩父農民戦争の十年後に、民乱の時代といわれた十九世紀朝鮮でもっとも大規模な東学農民戦争がおこっている。朴宗根をして『日清戦争と朝鮮』で、もし一八九四年の農民戦争に対する日清両軍の介入がなかったならば、「下からの改革《により椊民地に転落しなくてすんだのではないか、とまでいわしめた農民革命であった。

 この東学農民軍を〝殺戮〟したのが日本の軍隊であった。その主体となったのは徴兵された日本の兵士であった。彼らもほとんど農民であり、秩父農民戦争までは明治政府に反抗する活力を持っていたのだが、その後は徹底的に弾圧され大日本帝国の臣民になっていく。そして十年後には日清戦争の勇士に変貌していた。それからの日本は軍国主義国家となり、緩急の度はあれ、近隣諸国を侵略していった。
 東アジアという視点でみるとそうなる。このことを無視して日本の歴史を語るべきでない。

2011年8月28日

河田 宏(かわた ひろし)
1931年東京生まれ。早稲田大学文学部社会学科中退。日本近現代史、軍事史を中心に著述活動。
著書に『明治四十三年の転轍』(文元社、教養ワイドコレクション)、『第一次大戦と水野広徳』(三一書房)、『満州建国大学物語』(原書房)、『内なる祖国へ――ある朝鮮人学徒兵の死』(原書房)、『朝鮮全土を歩いた日本人――農学者・髙橋昇の生涯』(日本評論社)などがある。


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