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社会思想社刊
横山源之助全集 第1巻 |
★横山源之助全集 第1巻 目次 第二回配本2001年3月 ★横山源之助全集 第2巻 目次 第三回配本2001年12月 ★横山源之助全集 第3巻 目次 ★横山源之助全集 第4巻 目次 ★横山源之助全集 第5巻 目次 ★横山源之助全集 第6巻 目次 ★横山源之助全集 第7巻 目次 ★横山源之助全集 第8巻 目次 ★横山源之助全集 第9巻 目次 ★横山源之助全集 別巻1 目次 第一回配本2000年10月 ★横山源之助全集 別巻2 目次 |
A5判上製・函入・各巻平均480頁/本文13級一段組・一部11級二段組 四ヵ月に一冊配本予定 平均本体価格12,000円(税別) |
民俗学を創始した柳田国男、民芸の発見者柳宗悦に並び称される横山源之助の全貌! 都市貧民、職人、小作人など明治中期の庶民の実態や社会世相・風物を克明に描いた代表作『日本之下層社会』を始め、実態調査にもとづく、今日でいう"ルポルタージュ"の手法を駆使した著作は、近代日本社会創生期の歴史の証言としても、価値ある第一級の資料となろう。 横山源之助の著作は、経済学、社会学、文学など多岐にわたり膨大であるが、しかしこれらの作品のほとんどは現在、入手が難しい。 本全集によって、「知られざる横山源之助」の新たな全貌を浮き彫りにする。 百一年前の一八九九(明治三十二)年、二十九歳の新聞記者・横山源之助は『日本之下層社会』を著して、真正面から貧困の問題に取り組んだ。 時代は日清戦争と日露戦争との間、東アジアの小さな島国が武力で世界の舞台に登場した頃である。この時期、日本国内では労働運動が動き始めていた。 横山は時代の変化を鋭く読み取り、貧困の原因を社会体制の欠陥と認識した。その一方、一九一〇(同四十三)年に「明治富豪の史的解剖」を世に問い、日本の近代化の過程で、多数派の貧乏人とは対照的に、一握りの富裕層がどのように形成されたか解明している。 本全集の編集方針 ◆本全集は、横山源之助の全業績、すなわち現在までに発見された、新聞・雑誌に掲載の全作品と書下しの単行本を収録する。 ◆全体を「社会・労働」「富豪史」「殖民」「文学」および「別巻」に分類し、作品を年代順に配列する。 ◆『海外活動之日本人』を除き、作品はすべて初出に拠る。 ◆単行本に寄せられた他者による「序」も収録する。 編者のことば 横山源之助は「明治」という変革期における、すぐれた社会観察者であった。彼の業績はひろく社会学、経済学、文学に及ぶ。 しかし、初期労働事情を詳述した古典『日本之下層社会』(明治三十二)以外、明治・大正初期の紙誌に発表された価値高い五百数十篇にのぼる作品は、今日まったく顧みられていない。 横山源之助が再評価されねばならぬ理由は多々ある。日清、日露戦争下における、その大衆的非戦記録。明治期労働運動に果たした貢献。『日本之下層社会』成立前後、周辺の作品。そしてその後の下層社会、労働事情、中産階級、上流階級、都市、犯罪、殖民、明治裏面史、文学等にかかわる研究。──『明治富豪の史的解剖(彼等は如何にして富豪となりしか)』(明治四十三)後の集中的富豪研究は、確立期における日本資本主義構造史のはじめての綜合的研究であったろう。 横山源之助は下積みのものの人間的開花のため生きた、不世出の民間研究家であった。学問と人間愛の渾然。業績の豊饒。それは他に例をみない貴重な価値である。おそらくは、近代社会学上における横山源之助の位置は、民俗学を創始した柳田国男、民芸の発見者柳宗悦になぞらえることができるだろう。 二〇〇〇年三月 立花雄一 横山源之助(よこやまげんのすけ)略歴 横山源之助は 一八七一(明治四)年、富山県魚津に生まれた。左官職横山家養子となり、 一八八五(明治十八)年上京。英吉利(イギリス)法律学校(中央大学の前身)に学ぶが、弁護士試験に重ねて失敗。二葉亭四迷に師事。内田魯庵(ろあん)、嵯峨(さが)の屋御室(やおむろ)、松原岩五郎、樋口一葉らと交流。 一八九四(同二十七)年、日清戦争下毎日新聞記者となり、非戦記録作家として出発。 一八九七(同三十)年、高野房太郎、片山潜らと労働運動をおこす。 一八九九(同三十二)年『日本之下層社会』『内地雑居後之日本』。 一九〇〇(同三十三)年、「職工事情」(農商務省)調査参加。 一九〇一(同三十四)年、大井憲太郎と大日本労働団体聯合本部をおこす。 一九〇三(同三十六)年以後、文筆に専念。 一九〇四(同三十七)年、日露戦争下、非戦的底辺ルポ数篇。戦後、殖民問題に傾注。 一九一〇(同四十三)年、富豪史の研究に没頭。 一九一二(同四十五)年、ブラジル殖民事情調査。膨大かつマルチな業績を遺し、 一九一五(大正四)年六月死去。ルポルタージュの祖と称せられている。 ●横山源之助全集刊行によせて 隅谷三喜男 ◎一世紀前の転換期を振り返るのに最適 今、日本は世紀の変り目にあって、大きな変動に直面している。振り返ってみると、百年前の日本社会も深刻な変動期であった。日本的年代で言えば、明治三〇年前後で、新しい社会思想が入りこみ、労働運動が展開し始めた時である。この転換期の社会状況を最も適切にとらえ、報道したのが横山源之助であった。彼が十九世紀の晩年一八九九年(明治三二)に刊行したのが、一世紀後の今日もよく知られている『日本之下層社会』である。だが、横山の視野は広く、その視点は中々鋭かった。続いて『内地雑居後之日本』を書き、一〇年後には『明治富豪史』のようなものも書いている。その間、新聞・雑誌などに折に触れて書いた報道記事、論説等は枚挙にいとまがない。一世紀前の転換期がいかなる社会情勢にあったかを知るのには、横山源之助の文筆活動を読み直してみることは大きな意義がある。 紀田順一郎 ◎『横山源之助全集』を推薦する 横山源之助は、日本の近代化の歪みを実証的に研究し、世に訴えた最初の人である。貧困を社会体制の欠陥として認識し、福祉を社会の義務と考える思想が徹底して欠けていた時代に、横山源之助は常に弱者の視点に立ち、自ら地を這い回るような恵まれない生活環境と闘いながら、下層社会すなわち貧民・労働者階級の状況をつぶさに観察し、体制を告発し続けた。じつに日本近代史の礎は、横山源之助をもって据えられたといえようが、かくも重要な存在でありながら、その業績の全貌を窺うことが非常に困難であったことは、とりも直さずこの国の近代の性格を物語るものにほかならない。 政治経済の低迷、教育・福祉をはじめとする既存システムの揺らぎという日本の社会の現状を見るにつけ、私たちは、″人が人を支えきれない社会″の恐ろしさを実感するようになっているが、それを最初に指摘した横山源之助の全業績に接することの重要性は、今日計り知れないものがあるといえよう。 鎌田 慧 ◎社会の裏面史研究の武器 社会思想社が、『横山源之助全集』を刊行するとの報らせを、わたしは新鮮な驚きをもって聞いた。ときあたかも、日本の貧困が巷に露呈、拡大されつつあるときであり、犯罪もまたふえている。横山源之助が生涯をかけて探訪、踏査した貧民ルポルタージュが、いまようやく全貌をあらわす機会を得るのは、現在ただいまのこの社会の底辺に横たわる問題を分析する視点を獲得することでもある。 横山や松原岩五郎が書いた貧民窟や路上生活者の悲惨が、けっして過去のものでなくなったのは、歴史の逆説である。これまでわたしたちは、わずかに、『日本之下層社会』『内地雑居後之日本』、あるいは人力車夫やくずひろいや零細職人などの記録をあつめた『下層社会探訪集』、さらには『明治富豪史』の文庫本を手にできるだけだった。 今回の全集発刊の敢行によって、わたしたちは、社会の裏面史や都市問題研究の武器を得ることができる。社会改革の運動とともにあった、明治ジャーナリズムの真髄にふれることができるのが、楽しみである。 |
横山源之助全集 第1巻 目次 |
本体価格12,000円 522頁 2001年3月発行(第二回配本) |
第一巻 社会・労働(一) ■明治二十七年(一八九四) 青年会館講演 戦争と地方労役者 十二月九日の東京 ■明治二十八年(一八九五) 王子メリアス製造会社 孤女学院 養育院 我国の感化事業 社会の観察 職工徒弟学校 女子授産場を紹介す ちか頃眼に触るゝもの 魔想陳言 都会と田舎 炎塵裏の社会 都会と田舎 晩涼雑観 救世軍最始の運動 最近の木賃宿見聞記 都会の半面 ■明治二十九年(一八九六) 貧民の正月 途上雑観 偶感一則 偶感一則 社会最も憐むべき者 対話『佐久間貞一君』 憐れなる友人 移民保護談 北海道水産会社長 伊藤一隆君の海産談 出門第一日 宇都宮を一瞥せる儘 足利を一瞥せる儘 野州足利の機業 一面より観たる足利 文明を謌ふを喜はざる者 地方の木賃宿 機業地の側面 新町の絹糸紡績所 同盟罷工の一実例 方今の三問題 工女の欠乏 職工問題雑事 偶感一則 銷夏雑記 耐震家屋発明家 伊藤為吉君と語る 市談雑聞 田舎の風尚 地方の青年 所謂有志なる者 地方の下層社会 農業国の工業 地方の下女払底 田舎のとしのくれ ■明治三十年(一八九七) 田舎の正月 炉辺閑話 世人の注意を逸する社会の一事実 蕉 鹿 蕉 鹿 田舎の芝居 地方職人の現状 金沢瞥見記 北陸の慈善家 加賀の工業 九谷焼 福井地方の機業 福井地方の工女 大阪を一瞥せる儘 大阪貧街の現状 大阪工場めぐり |
★ TOP ★ (石碑の表書) | |
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郷土の生んだ先覚者 横山源之助の生涯 氏は明治四年(一八七一)二月魚津の金屋 町に某網元の私生児として生まれ、左官職人 横山依兵衛の養子となり養家に育つ。明治十 四年魚津明理小学校卒業後、商家に奉公、独学 のうち明治十八年富山中学校が県内で初めて創 設されるや第一期生として入学。その後激動 する世相の中にあって青雲の志を抱いて上京 英吉利法律学校(現中央大学)に学ぶ。 初志をかけた弁護士試験に失敗し断念。横 浜毎日新聞の記者となり、主に過酷な労働に あえぐ各産業の労働者、小作人、都市貧民、 零細町工場下請人等社会の底辺部分を赤裸々 に描いた下層社会のルポを書き、当時の悲惨な 現況を世に訴えた。 氏は明治三十二年若冠二十九才で代表作 「日本之下層社会」を世に出す。この著書は明 治時代の社会の下積みの人達の生活状態を我 国で初めて明らかにするとともに、総合的 に研究した点から今なお我国経済界で高く評 価されている。日本経済学の書物のうちでは 古典中の古典である。 氏は大正四年(一九一五)四十五才の若さ でその数奇な生涯をとじる。 氏は郷土の生んだ我国における社会問題研 究と労働運動の先覚者であり、今日の社会福 祉の先覚者である。 魚津市長 清河七良書 | |
魚津市新金屋公園内にある石碑 建立昭和62年(1987)1月吉日。 建立者魚津市本江民生委員協議会 (世話人代表長谷河長作 11名連名) | |
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